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| ■上司から学んだ人生哲学 |
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今回取材に応じて下さったのは、株式会社大洋の専務取締役・山口強志さん。
数年前に、ある方からご紹介していただき、教育ビデオをテーマに打合せをしたのがキッカケだった。その後、山口専務が定期的に行っている共創マーケティング研究会という異業種交流の場に、お誘い頂いたこともあった。
何度もお会いし、お話をさせて頂く機会があったにも関らず、厳しい面持ちと、とても厳格な印象があり、近寄りがたい存在だった。しかし、そんな印象とは裏腹に笑顔がとても素敵な方である。
山口さんの厳格な雰囲気は何処からくるのだろうと、思い切って取材をお願いすることに。ご本人には、私が抱いていた印象についてはお伝えしていないが、お話を伺ううちに、その理由がほんの一部分かったような気がした。山口さんという人間像に迫って、改めて学ぶことが多かった。
大洋入社までの道のり
熊本県の水俣市で生まれ、育ちました。地元では、チッソ(現:株式会社チッソ)という肥料を作っていた会社がありました。半国営みたいな企業で、水俣って言うのはチッソの城下町みたいなところがあったんですよ。
そこで水俣病闘争があって、労組のジグザグ行進とかを見ながら小学校に通っていました。その頃は、水俣病についてあまり理解はしていませんでした。ただ、そういう地域に住んでて、「何でこんな名前付けたんやろうか」って思いながら生活してたんですけど。
福岡の大学に進学し、「出身何処ですかって?」聞かれ、「水俣ですっ」て言うと、「えぇーあの水俣病の!」っていう具合に、一種の差別的な目で見られていたことがあったんです。たまたま水俣出身というだけで、「あんたも水俣病っちゃないやろね」とかっていうのは、よくありましたよ。
大学の卒論を書くときに、商学部だったから、何にしようかと思っていたら、経営と水俣病みたいな事で「企業繁栄と水俣病」ついて論文を書きました。単純ですよね、そういう本は沢山ありましたから、水俣病関係の本を引っ張り出してきて、書き写して提出したっていうところでしょうか。
今思えば、自分では気が付かないうちに、環境というものについて、何らかの意識付けみたいなものが多分あったんでしょう。
大学を卒業し、広告会社「西広」へ入社しました。流通関係の会社や団体商品の企画、広告計画、キャンペーン等に携わっていましたが、ある年、福岡が深刻な水不足に陥りました。街中に給水車が出るほどで、街路樹まで枯れていきました。それを見て、「近くにいる人がコップ一杯の水をかけてあげる。何故そんな事が出来ないんだろう?何かキャンペーンとか出来ませんか?」と会社で提案してみたんですが、一蹴されました。「そんなことしたって、誰も金は出さない」という悲しい答えでした。そんな事があり、節水や環境問題について「どうしたらいいんだろう?」と考えるようになりました。
その後、西広には11年くらいいました。
今でもよく憶えているのは、丁度、福岡に地下街がオープンする時に広告営業した事でした。その時代は九電=D社っていう時代だったんです。
当然のようにD社が全て取り仕切る事になりましたが、我々は地元の広告会社として、何とか参入出来ないかと考えていました。プレゼンの時に、D社の提案に対して、ここは福岡に合わないとか、ここは違うとか、反対意見ばかり言って、地元ならではのマーケティング上の切り口を活用し、冬と夏のバーゲンが西広(ウチ)に決まりました。
キャンペーンについてはD社に決まったんですけども、一度だけ冬のキャンペーンをD社から取り上げたことがありました。その時には営業として、東京まで資料を借りに行ったりとか、帰って来たその足で、夜中から地下街の撮影をしたりと忙しくしていました。昼間は地下街が営業をしてるから、閉まった後に地下街内に入り、朝六時までに撮影が終わるというハードなスケジュールで、とにかく仕事に追われてましたね。
当時、西広の取締役営業局長が、僕の仲人だったんです。ちょうどそこ頃、広告不況って言うか広告業界の伸びが悪くなる時期があったんですよ。昭和58年〜60年あたりですかね。
その頃、結婚が決まり仲人はどうしようかと考えていました。「お前ここでずっと仕事していくんやったら、そういう人に仲人をしてもらわな、まずいやろうもん」って先輩から言われてました。「そうですかね」って、思いつつも結局、部門の長であった取締営業局長の松尾さんという方にお願いに行きました。
それからしばらくすると、社内の騒動に巻き込まれて、松尾さんが西広を辞めてしまったんです。辞めた後に、大洋の先代である岡部会長から声がかかり、大洋映画劇場の取締役として就任されました。後から聞いた話ですが、岡部会長は「松尾さんに来てもらって、映画の仕事をしてもらうって言ったって、全然今までのやってきた仕事と違うから、何か新しい事業を松尾さんが中心となってやってもらえませんか」という話しだったそうです。当時の広告は、一方的に広告を出して、お客さんが物を買うという単純な内容です。しかし、これからは広告を出し、そのレスポンスがあって、効果や反応を調査したり、把握しながら広告というのが成り立っていく。それがマーケティング用語で言う2Wayコミュニケーションという考え方でした。
それを踏まえて新しい事業をやるということになっていたらしく、岡部会長と松尾さんとで、「それなら兵隊が要りますね」ということになったらしいのです。松尾さんにしてみれば初めての仲人が僕だったんですよ。だから記憶に残っていたんでしょう。あるとき電話がかかってきて、「ちょっと会えんか」ということだったもんですから、喫茶店で待ち合わせました。松尾さんから、「実はこうこういうことで新しい事業をやる。営業の責任者として、あんた来んか」とお誘いをうけました。ハッキリ返事をしたつもりはなかったのですが、一言「そうですね面白そうですね」って言ったのが運の尽きで、結局押し切られ、西広を辞めて株式会社大洋で新しい事業をするようになったのです。
結婚して7年後くらいの出来事でした。自分でもこの業界(広告会社)では、世の中がどんどん変わっていくもんですから、40までしか務まらんやろうなと感じていました。当時は、年寄りが広告の仕事って出来んだろうと思ってたんですよ。自分としては35までには何か新しい事をはじめられるといいなっていうのが、頭の片隅にあったんですね。その時期がたまたま合致したのかもしれません。
上司の教え
上司の松尾さんは、仕事に対してものすごく厳しい人だったんですよ。前の会社でもそうですけど、数字にも厳しかった。生き方そのものについてもものすごく厳しい。前の会社で僕は松尾さんの部下80人の中の1人。実際、接するっていっても80分の1でしかなかった。
ところが、大洋に来て松尾さんは専務で、僕は部長という立場。常に1対1ですよね。その頃24時間のうち、極端に言うと半分くらいは一緒なんですよ。34(歳)で箸の使い方ひとつから注意されました。
毎日営業に出かける前、「相手が話しを聞いてくれるかどうかは、お前の成長にかかっている。だから自分自身を磨いていかないといけない。」と言われ続けました。広告会社にいたときは、ある意味ちゃらんぽらんで出来たんですよ。前の日飲み過ぎたから、すみません現場に直行しますって言って、昼頃会社に行ったりとかしてましたけど、結局そういうことをするのは、サラリーマン的な考えであって、企業のトップに立つためにはそういうことじゃだめだということも教えられました。
4、5年くらい続いたと思いますよ。反発もしたんですけど、今思えば、あの時のあの経験が、サラリーマンと経営に携わる人間は全然違うんだという事を教えてもらったようなものですね。
そんな松尾さんが、仕事中に大きな声で電話していました。その後、電話置いた途端に倒れた。すぐに救急車を呼んで、僕は一緒に乗って病院まで連れて行ったんですけども、CT撮ったら脳の真ん中に脳内出血。医者からこれでは手術できませんねと言われ、入院した翌日の朝、亡くなった。「机の上にある書類を持ってきてくれんか」と言われたのが僕が最後に聞いた言葉でした。その時僕は、取締役営業部長という肩書きだったんですけど、まだサラリーマンですよね、僕の考え方は。上にちゃんと、社長や専務が居たわけですから。1つの企業をやっていかないかんという考え方は、まだありませんでした。
その後大洋の社長が、この事業を続けていくんだったら、亡くなった松尾専務の代わりにあなたが専務になってやれと言われて、えっと思いながらも結局はやらざるを得なくなりました。就任後しばらくは紆余曲折ありました。僕がやるようになって、赤字がずっと続いてしまいました。本当にどうしようかと思ったんですよ。でも松尾さんの言葉を思いだしたんです。自分が頑張ったとしても、周りというか、宇宙全体には意志みたいなのがあって、そういうものを全て含んだ中で、自分自身が生かされているんだということ。以前、何度も口酸っぱく言われてたんですよ。その時は意味がわからなかったんですけど、どんなに頑張っても売上げ上がらんときは上がらないってわかったんです。でも、どうにもならんというときに、ぽっと助けてくれる人が出て来たんですよ。それまでの経験からすると、もうどうにもならない、この会社はどうやったら売り上げあがっていくんやろか、黒字になるんやろかって窮地に立たされた時、助けてくれる人が出てきた。
その時、前に言われてた言葉が、あっこういう事だったのかっていうのが、自分の実体験として確認できた。その気付きは大きかったですね。
それから考え方が変わって、闇雲に営業するんじゃなくて、自分の事業、世の中の流れ、そういうものと合致する人をどうやって見つけていくか。利益にならなくても、そういう人とお付き合いをして行くと言う事が大切なんだという事を、何となくわかってきたような感じでした。東京・大阪で一緒に映像を作ろうという人達と、しばらくは仕事の繋がりがなかったわけですから、縁を切ろうと思えばいつでも切れたわけです。でも、松尾専務がいってた言葉、何かの縁があって彼らと親しくなれたんだから、それはそれで続けていかないといけない。そこで全然利害関係が無いから、自分から切ってしまうということは良くない。そう思いました。
今でもお互いに、本当に儲かってるという状態ではないんです。基本的な考え方っていうのは一緒なので、今一緒にこの洗浄剤を世の中に広めるということが、地球の為になるし、それが結果的に自分たちの利益になる。鈴木清一氏の「われ損の道をゆく」っていう本がありますが、その考え方そのものですね。今のところまだまだ儲かってませんが。 振り返ってみると、僕にとっての大きな転機というのは、松尾専務とのご縁だったのかもしれません。
お礼ハガキ
株式会社大洋が出来て、なかなか売上げが上がらない。その当時、松尾専務から、お前はまだ人間になっとらんみたいな事を言われてた時期があって、自分自身も落ち込んでいたような気がします。何か突破口が無いといかんと思い、色んな異業種交流会に出たんです。その時の自分は小遣いの大半を、異業種交流会に出席する為に、使ってました。
その中の1つ、ヒューマンネットワーク福岡っていう会に参加して、これがすごかったんですよ。今は潟eィアの社長で、その当時は浜勝の社長の元岡さんとか、イエローハットの創業者(現在は取締役相談役)の鍵山秀三郎さんとか参加されて、博多駅の近くで300人から400人くらい集まった異業種交流会。
そこの副会長をしたりしてたんですけど、ある時、坂田さんていう方が、講師で来られたんです。ハガキ道の坂田成美さん。(現在は「道信」と改名)
僕はその時は知らなかったんですが、会に参加してる人は、坂田先生って呼んでましたね。元々家が農家で、農業をやってた人間がハガキを一日30枚書き始めたら、世の中が変わってきたというお話です。「ハガキ道」というテーマで全国を講演しているということでした。ある生命保険のセールスの人が、坂田さんの話を聞いて、一日何十枚とハガキをせっせと書き始めたら、それまで売上が悪く、悩んでいたのが嘘のように、トップセールスマンになったと言う話だとか、遠く離れた自分の母親から電話がかかってくるたびに、喧嘩口調になってた人が、坂田さんの話を聞いて、「おれ元気」という四文字だけを365日毎日、ハガキを書いて自分の母親の元に送ったとか。すると、一ヶ月もせんうちに母親からの電話の内容が変わってきた。親が子供を心配するのは当然ですけど、親子の関係っていうのが非常に良くなってきたという話しを聞いたわけですよ。
それでじゃあ僕もちょっとやってみようと。僕が書いてるのは複写ハガキで、カーボンを敷いて、自分の手許には、いつ誰に何を書いたかが残るようにしてあるんです。その時に坂田さんは、「手紙じゃダメだ。ハガキのあのスペースの中に、自分の気持ちを書く。だから一行でもいい。目一杯書いてもいい。それは、その人の勝手であって、ハガキ一枚の中で全てを終わらせる。たくさん書きたい場合は、ハガキを分けて書けばいいじゃないか。」って話してました。ハガキっていうのは、裏っかえせば常に文章が見えますよね。だから変な事は書けないんですよ。手紙は全部、隠されてしまいますから。例えば人の悪口とかも、書こうと思えば書けるんですよね。はがきは誰が見るか分からないから、人の悪口だとか、誹謗中傷するようなことだとか、怒ってる事は書けない。ということは、自分自身がプラス思考で考えられるようになる。だからハガキなんだというのが坂田さんの考え方だったんですよね。だから僕は、手紙をほとんど書きませんけど、ハガキは書きます。
自分の母親にも、今どういうことをしてて、でも家族みんな元気だと言うことを最後に添えて出す。そうするとやっぱり安心するんですよね。自分の親も90過ぎてる。親父が94でお袋が89ですけど、それでもやっぱりハガキを書けば、頭の中にイメージできる。どういうことをやってるのか、子供達が今どんな事をしているのか。元気だとしか書いてないんですよ、でも、イメージが出来る。それは出したり出さなかったりですけど、20年以上続けてますね。36くらいからでしょうか。だから書きつづけて20年ですね、今年56だから。毎日書くわけじゃないですけど、人と会って、この人には出したいと思ったときに。本当は皆に書けばいいんでしょうけども、まだそこまでハガキ道に撤してないんでしょうね。
新事業
初めて手がけた仕事は、「ベルウェイ」という会社の事業でした。いくつかある事業の中の一つで、ベルレターというのがあり、地域情報誌を活用した広告を作っていました。
今でこそ、フリーペーパー(地域情報誌)は沢山ありますけど、24年前にそういう言葉は無かったんです。まだ、世の中にほとんど無く、もちろん福岡にもありませんでした。そんな時代に地域ごとに情報誌を作り、各地域の広告を載せ、クーポンを付けたんです。それをお店に持っていくと、値段が割引されるという仕組みです。そして、そのお客さまの声を広告主にフィードバックする。当時としては非常に新しいやり方でした。ところが、既存のメディアを使った広告があり、ベルレターへの反応は期待はずれでした。
西新の商店街を一軒一軒回って、「広告出しませんか?」と声をかけても、路面店自体がどんどん無くなっている。郊外に新しいモール(ショッピングセンター)が建ち、商店街が段々衰退している時でしたから、思うように広告が集まりませんでした。ほとんどのお店が、仕組みは分かるけどもこちらの広告に割く余裕がないということで、結局4、5年続けたんですが、なかなか収益にはつながりませんでした。
一方で、ビジネスビデオの販売もしていました。
これはベルコミュニケーションズという別事業で、“サクセスロード”というシリーズのビジネスビデオを発行していたんです。それを企業の教育に使ってもらおうと。いわゆる全国の繁盛店を収録し、それを毎月ビジネスビデオとして発行する。こっちの方は結構当たったというか、一番多い時には福岡で150社くらいの企業が毎月取ってくれてたんですよ。B電器さんも取ってもらってましたし、あちこちの商工会議所や銀行さんも採用してくれました。
これは順調に進んでいたんですが、なんとその発行元であるベルコミュニケーションズという会社が無くなってしまったんです。大洋としてはビジネスビデオを販売するということで、色々な企業と知り合えて、そこから広告の仕事やセミナーを開いたり、そういう仕事が付随していましたから、ある意味ビジネスビデオが我々の営業ツールだったんです。それが無くなって、とにかく大変でした。それと同時に、映像機器そのものがどんどん低価格になってきました。今までなら、20分の会社案内のビデオを作るのに約300万という金額で受注できてたのが、どんどん値崩れしていきました。またそれは、パソコンで編集(ノンリニア編集)できるようになったことも重なって、受注金額も低価格になってきました。そうすると我々のように放送用の機材使って取材をすると経費がかかり過ぎ、価格競争では太刀打ちできないという事態が発生しました。
ちょうど、サクセスロードがなくなったのと並行して、景気が悪くなり企業自体もそんな余裕が無く、教育費からをカットするのです。そしてどんどん減って、とうとう無くなりました。
今までは、プロデュース業とかディレクション業だけやっていれば良かったのが、自分で編集をしなければいけないという自体に陥ってきた。極端な言い方をすれば、シナリオを書いて、カメラを回して、編集をして、ほとんど1人でやって、物を作り上げる。そうしないと、価格競争に対応できなくなってきました。
そんな時期に、環境保全が重視されはじめ、ISO9000とかISO14000環境マネジメントシステムがヨーロッパからスタートしました。東南アジアに広り、日本でもそれを取得しないと、今後、公共事業の入札は出来ない時代になってきて、どの企業もISO9000やISO14000をとらなきゃいかんという時代になってきた。そこでISO9000は建設コンサル関係のビデオを作り、それを元に全国発売をしたら、そこそこ売れた。ISO14000については、水俣市の行政が取得するという話しが伝わってきたので、その当時の吉井市長や環境課の吉本さんに「僕は水俣出身で、映像を作ってます。水俣市の取得までの一年間を、映像で取材させてもらえませんか」というお願いをしました。「それなら、あんたのとこだけ許そう」と、言ってもらい、「水俣市ISO14001への道」という三巻セットの映像を作りました。その時に環境マネジメントシステムの勉強をすることになり、行政がやる環境対策も勉強できたんです。
ある時は、EMボカシ(※)というのを使って、農業をやるという現場に立ち会いました。撮影をするうちに、だんだん環境に配慮する行政や企業が、今後増えていくことを実感しました。
※EMボカシとは、EM菌を米ぬかで有用発酵させたもの。EM菌とは、琉球大学の共助によって開発された有用微生物郡。農業における土壌改良を目的に、現在環境浄化の切り札として幅広い分野で活用されている。
共創マーケティング
15年程前になりますが、石村萬盛堂の石村社長が、「朝、勉強会をやらないか?」という一言で始めたのが共創マーケティング研究会です。当初、名前をどうしようかと考えていたら、ウチで扱ってるビデオの中で、慶応大学の嶋口先生がお話ししていた事を思い出しました。それは、マーケティングは強制ではなく、共に創る共創という考え方で、「共創マーケティング」という本も出版されていました。
その当時僕も、起業とか創業者に向けてビデオセミナーを開催し講師をしていましたから、嶋口先生の考え方を伝えたりしていました。それを石村社長に「共創マーケティングはどうですか?」って言ったら、「それにしよう」ということになり、毎月第2・4の火曜日、朝7時から8時45分まで勉強会をしています。はじめに映像を見て、その映像について皆で話し合う。それがもう15年になるんですね。会場はウチの会社の試写室。それ以前は会議室を使ってやってたもんですから、僕がいないと映像がみれないんです。でも、一度だけ7時に間に合わなかった。必ず手帳に赤印をつけて、忘れないようにしているんですが、一度だけ忘れてたことが有りました。事務局をしてくれている、石村萬盛堂の小川さんからの電話で起こされました。「あっ」と思い、それこそ信号無視もしながら、すぐに向かいました。普通なら自宅から25分位かかるところを、10分で着きました。皆さんビルの前で待ったったんですけど、7時10分に会場を開けてお詫びしながら始めました。でも、その一度だけですね。お正月は重なりませんが、お盆が重なっても開催しています。
ビデオセミナーなんですけど、様々な業種の人たちが来てくれるし、いろいろな経験をした性別や年齢、職業も違う人たちが一堂に集まって、1つのテーマについて話し合うということは、非常に貴重な時間。自分が知らないこと、もしくは気が付かなかったこと、そういう事がその場でどんどん出てくる。その時に素直に、なるほどそうかという風に思うという気持ちが、自分の成長に繋がっていく。
それに尽きると思うんですよね。
同業の情報はいくらでも入ってくると思うんですけども、やっぱり異業種の中で、自分の業種の中では考えられなかったけど、こういう業種はそういう風な捕らえ方をするのか、と視点を変えることによって、もしそれを自分の業種に取り入れた場合、それはどういう風に出来るかなって考える事が出来、新しい自分の仕事のあり方、もしくはそれが利益につながっていく。
共創マーケティング研究会は、続いてますけども、今この時期(2月)が一番辛いですよね。寒いし、暗いし。夏場はどうせ明るくなるから早めに起きますけど、この時期、特に氷が張った朝はどうしようかと思う。
参加メンバーは多い時は20人くらい。少ない時は、5人でした。1月の第1回目で、暗いし雨もちょっと降ってたのかな、まだ正月明けて間もないということもあったから。それでもちゃんと7時から始めました。
社会人に求められること
僕が創業塾のセミナーでよく言ってるんですけど、感動という字はもともと、即という字が間に入っていたんです。「感即動」ってね。
感じて即動く(行動する)という事が本当の感動。だからいつも言ってるのは、何かを感じたら、具体的にそれを行動に移していく。それは一年後じゃなくて、明日から早速始める。でもしばらくすると、忘れるんですよ。忘れたり、他の事を優先にしたりするから、そこからもう一回リセットしてやればいい。自分がやれなかったからといって、マイナス思考になっていくというのが一番いけない事で、人間だからダメならダメで出来ん事もある。また今日からもう一回始めればいい。
仕事柄、色んな人にお会いしますけど、会ったとき、最初に何かを感じるんですよ。この人すばらしいなとか、お互いに“気”を出してますからね。それを感じて、もし自分はこの人はすばらしいと思ったら、一生付き合えるような行動を、自ら起こす。もしそうじゃないと思ったら、ごめんなさいって言うことでいいんじゃないかな。八方美人で誰にでも合わせるって事は至難の業なんですよ。ストレスもかかる。そういう人はだからパッと会ったときの、人間の第一印象っていうのはすごいんですよね。ものすごく長い歴史の中で人類が生きてきて、身体の中に染み付いている、自分では分からないものが出てるんですね。相手も出してるんですね。それが、合うか合わないかっていうのは、自分だけの問題じゃなくて、時間の流れの中で、最初の時に出てくる。直感って言うのを信じよう。
直感で合う人は一生懸命するべきだし、そうじゃない場合には悪いけどごめんなさいと言う割り切り方も必要です。こうだと思ったら具体的にまず動いてみる。ダメだったらやめればいいし、良ければ続ければいい。
ただそれだけです。
不思議な縁
元々ベルウェイという会社は、ダスキンの創業者である鈴木清一氏の考え方、「祈りの経営」を実践していました。その考え方で、映像作りをやろうと言う話が持ち上がりました。彼らとは縁があったんですね。お互い別の場所で映像を作りながら、連絡は取り合ってました。
そんな時、ダスキンの上層部が、私服を肥やす事件がありました。鈴木氏の考え方を踏襲している人たちや、優秀な加盟店の人たちと共に、新たに事業をはじめようということになりました。それが「やさしい生活クラブ」です。
やさしい生活クラブの理念は「地球にやさしい、動植物にやさしい生活を送りましょう」というのが基本にあるんです。僕自身にも、環境に対しての意識があったから、その理念に賛同し、九州でもやろうということで始めました。最初の頃は、健康食品やサプリメントから始めたので、ちょっと事情が違うと思っていました。あまりお手伝いできないかもしれないなと思い始めた去年の夏、転機が訪れました。環境にも力を入れようと、洗浄剤を扱う事になりました。その新しい洗浄剤の話を聞く為に、京都まで足を運びました。その洗浄剤は、界面活性剤を一切使わず、天然の物である大豆と松の実の脂肪酸を使う。それをナノテクノロジーとバイオテクノロジーの技術を使い、自然を汚さず汚れがきちっと落ちる。その事を聞いて、やさしい生活クラブの事業においては核となり、大洋においては映像を作るということにつながると感じました。
社長は「儲からん事は、あんまりやらんでいいよ」って言ってたんですが、環境という点からすると、これはやっぱりやらないかんだろうと、現在に至っています。
洗浄剤の種類は家庭用が「やさしい家族」、業務用は「スーパー環境洗浄剤」。そして、ナノソイコロイドという原液そのものの「カンタンナノ」があります。これらの中でも、「カンタンナノ」を中心に「スーパー環境洗浄剤」を飲食店で扱ってもらっています。
今、食の安全・安心がものすごく大きな話題になっているので、いろんなところで実験を兼ね使ってもらってます。実際に使ってもらっているところでは、「これがないとダメ」というくらいの信奉者が出て来ました。正直、やっと緒についたという感じです。まだ利益にはならないけれど、商品自体は間違いなく良いという事が、少しづつ実証されています。後は、この商品をどういう風にして多くの人に知ってもらうか...というところですね。
今後の目標
イメージ出来てるのは、スーパー環境洗浄剤と、やさしい家族を中心に自然の物。いわゆる合成化合物は一切使わない、自然の物を扱っていく。そのために映像というのは、世の中に知ってもらうためのツールとして、必要になってくる。
今までやってきた映像の技術もそこで生きてくるし、自分が自然環境も含めて環境というものに影響を受けてきた、そのものに携わってきたって言う事も生かされてくる。そういう意味で今、やさしい生活クラブという事業そのものをベースとして、環境に優しい、つまり、環境ビジネスということになると思うんですが、それを徹底してやっていきたい。出来れば、福岡に飲食店が何万店あるか分かりませんけども、ある程度のところは、「スーパー環境洗浄剤知ってるよ!」というところまでいければ、というのが当面の目標です。 年齢的にいつまで会社に居れるか分かりませんけどね。
あとがき
今回のように、山口さんから改めてお話を伺うのは初めてだった。人生の中で、何かしら影響を受ける上司に巡り会うことは、よくあることだと思う。しかし、伺ったお話のように、仕事のみならず所作を含めた自分磨き、考え方を教えてくれる上司に出会えた山口さんを、うらやましく思った。私が部下だったら、三日と持たないと思うが・・・。
先述した山口さんから受ける印象は、ご自身への厳しさの表れかもしれない。私にはまだまだ足りない厳しさを、少しでも身に着けたいと思えるほど、素敵な方だ。山口さんに近づけるように、まずは「お礼ハガキ」から始めよう・・・・・。
お忙しい中、取材に応じて下さり、本当に有難う御座いました。(編集部より)
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Profile |
| 山口 強志(やまぐち つよし) |
株式会社大洋
専務取締役
〒810-0801 福岡市博多区中洲4-6-10 大洋ビル5F
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